蓮を取るべからず 谷の池を不浄なりと嫌はば

2018年7月1日

このお言葉は文永九年(一二七二)、五十一才の大聖人が、法華経行者の守護と真の祈りのあり方を委細に説かれた『祈祷抄』の一節であります。

 蓮の花は汚い泥水の中から芽を出し育って行くにもかかわらず、決して汚泥に染まることはありません。あらゆる花の中で最もすがすがしい香りを放ち、美しい清浄の色で咲き匂うことが知られております。それのみか、汚い筈の泥水をも清浄の薫りや華やかさでつつみ、聖なるものへと蘇らせることに気付きます。

 まさしく汚泥のごとくなる煩悩の汚濁におおわれた私達の心の中には、崇高なる「仏性仏界)」が冥伏しております。。私達は法華経(お題目)への「信」を通して、み仏のこころを感じ、「仏性(仏界)」に目覚めた自己として蘇るのです。

 また、この大聖人のお言葉は、私達がとかく隠蔽しがちな人間の不浄な部分と向き合う「強さ」、あるいは、目を背けたくなるような現実に直面した時、勇猛果敢にそれと対峙し関わる勇気をもつこと。その中に、必ずや一条の光明(救い)が射すことを、教えておられるのです。

 「妙法蓮華経」と出合うことによって、私達は本来あるべき真実の自己へと目覚めさせて頂くことができるのです。

「日蓮大聖人聖訓カレンダー解説」より

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