本心と申すは法華経を信ずる心なり

2018年8月1日

このお言葉は文永十二年(一二七五)、大聖人五十四歳、身延から池上右衛門大夫宗仲・兵衛志宗長の兄弟とその女房達に与えられた『兄弟抄』の一節であります。

 大聖人は、『法華経』の「如来寿量品」の教説を基に、この末法という時代に生きる私達が「本心(本来もつべき心)を失える者」であることを明かされています。そして、右の聖訓は、その「本心」がつぶさには「法華経を信じる心」を意味することを教えています。私達が、お釈迦様のみ心に叶って、救いの光に照射された本来在るべき自己の姿を取り戻すためには、法華経へ絶対の信を捧げることが肝要となるのです。

 ところで、宗仲と宗長の兄弟は康元元年(一二五六)頃、鎌倉にて大聖人の尊い教えに出会い入信しましたが、そのことが、作事奉行として武蔵国荏原郡千束郷を知行とする父・康光の逆鱗に触れることとなりました。康光は、極楽寺(真言律宗)の良観房忍性に傾倒していたのです。親子間の信仰をめぐる問題は、年おう毎に深刻となり、遂に文永十二年には兄宗仲が勘当されるという最悪の事態に陥りました。

 『兄弟抄』は、この報を受けた大聖人が兄弟夫婦を激励した書で、その後、父・康光は、法華経を信じる心(本心)を基とした兄弟の説得によって、遂にみ仏の本懐を領解し、正しい信仰(法華信仰)に目覚めたことが知られています。

「日蓮大聖人聖訓カレンダー解説」より

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