法華経と申すは手に取れば其手やがて仏に成り口に唱ふれば其口即仏也

2017年3月1日

このおことばは、弘安四年(一二八一)十一月十五日、大聖人さま六十歳の時、身延から南条時光の母尼御前へ送られた書状の一節です。この母尼は、六老僧の一人日持師の姉であると伝えられています。

 この母尼御前が亡父松野六郎左衛門の命日に白米一駄・洗い芋一俵を供養に捧げたことに対する、大聖人さまのお礼状で、子の善根が親の追善となることを述べ、亡き父・夫・子、共に成仏疑いなしと示しておられます。

 本宗の教義の拠り所であり、根本聖典である法華経は、ごぞんじのように蓮華に譬えられています。天上界には摩訶曼陀羅華、人間界には桜の花等、数多くある中で、すべての花の中で、仏さまはどうして蓮華を譬えに用いられたのでしょうか。それは、一般的には前華後果(ぜんけごか)といって花がさきに咲いて果(み)は後になります。しかし蓮華だけは華果同時(けかどうじ)といって、花と果(み)が同時だからなのです。法華経以外のお経にはさきに善根をなして後に仏に成ると説くから不定だと大聖人さまは申されます。しかし法華経は、手に取れば直ちにその手が仏と成り、口に唱えればその口が直ちに仏と成るのです。月が出ればその影がすぐに水に浮かぶように同時なのです。このように華果同時の蓮華に譬え法華経の功徳の優れていることを示されたのです。

 なおこの御書のご真蹟の一部が京都本禅寺様に所蔵されています。

「日蓮大聖人聖訓カレンダー解説」より

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