仏道に入る根本は信をもって本とす

2018年4月1日

 このお言葉は、文永三年(一二六六)正月六日、安房の清澄寺においてお書きになられた法華題目抄の一節であります。

 一般に、学問・知識は、その時代にふさわしい「真実とは何か」という問いかけ(疑)によって築かれ発展してきました。

 学問・知識は頭で理解されるものです。

 仏道に入る根本は信仰心です。たとえ経文の意味や法義を悟ることができなくても、信仰心さえあれば、智慧なきおろかなる鈍根の者でも、正見(正しい考え)に住するものです。

 これに反して、いかに智慧才覚がすぐれ、経文の法義、道理を得ているといっても、信仰心が欠けているならば、その人は、法華経を誹謗(そしり、悪口をいうこと)闡提(不信にしてよこしまな考え)に堕していると示しています。

 「慧又堪えざれば、信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。」

 智慧の及ばざる者は信の一字が大切であり、仏道の修行は信心を以て根本かなめである、というのであります。

 私達凡夫が浅い智慧によっては、仏法を体得することはできません。唯信ずることによって本仏の境界に入る外はありません。私達は少しばかり学問・知識を得ると、とかく理屈に走りがちとなります。広大な本仏の智慧を体得するのには、狭い智を以ては不可能であり、謙虚になり、本仏を信ずることが最も大切なことであります。

「日蓮大聖人聖訓カレンダー解説」より

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