年中行事

上行寺の檀家の皆様の法華信仰の篤さは根強く、当山では、現在も、独特の風習に習い、たくさんの行事を行っています。

年中行事
開催月 行事名 開催日 開始時間
1月 祝祷会 1月1・2・3・7・15日 午前6時
お日待・節分会 1月(22日以降日曜日) 午前10時
3月 涅槃会 3月15日 午後1時半
春季彼岸会 3月春分の日 午後1時半
4月 祠堂法要 4月3日 午後1時(昼食の用意有り)
5月 降誕会 5月8日 午後1時半
7月 鬼子母神祭 7月8日 午後1時半
重忠まつり 7月(22日前後) 午前10時
8月 盂蘭盆会施餓鬼
塔婆供養
8月(20日以降) 午後1時(昼食の用意有り)
御日待おどり 8月(最終土曜日) 午後7時
9月 秋季彼岸会 9月秋分の日 午後1時半
10月 三十番神祭 10月25日 午後1時半
11月 御会式 11月13日 午後1時(昼食の用意有り)
12月 大師講(天台大師) 12月24日 午後1時半
除夜の鐘 12月31日 午後11時45分~

1月

「祝祷会」

1・2・3・7・15日の五日間、午前6時より新年の無事安泰を祈り、ご祈祷経があげられます。参詣者全員に経巻頂戴が行われ、これにより法華経の功徳を頂戴いたします。





「お日待ち節分会」

お日待ち節分会は、四十二の厄払い、交通安全、家内安全、安産、学業成就などの各種お守りやお札が用意され、前夜午後7時、早朝午前6時、10時とご祈祷経があげられ、参詣者全員に経巻頂戴が行われます。法要後、節分豆撒きが行われ、邪気を払います。









3月

「涅槃会」

釈尊が御入滅されたときの様子を描いた『涅槃図』を掲げ、婦人会の手作りの涅槃団子を捧げ、法要をいとなみます。

御入滅された日は2月15日ですが、当山ではひと月遅れの3月15日に涅槃会を行っております。

法要後、涅槃団子は、参詣者に撒かれます。拾われた団子は、食したり、一部は、美しい糸で編んだ小さな袋に入れられ「お守り」になります。









「春季彼岸会」

春中日に,彼岸法要が行われます。

「彼岸」とは読んで字のごとく「彼の岸」「向こう岸」で、私たちの住む欲望にまみれた迷いの世界「此岸(しがん)」に対しての「彼岸」、悟りの境地ということです。煩悩まみれの自分自身を、少しでも安らかな悟りの境地に近づけるように努力する期間、それが本来のお彼岸の意味です。

昔からお寺は信仰のよりどころであり、文化の発信地でもありました。当山では、近年法要後、皆さまと共に楽しめる時間を設けようと、演奏会、映写会、語りの会などを行っています。


法要後の高座説教

2015.3.21 地歌箏曲演奏会

2016.3.20 民話のおはなし会

4月

「祠堂法要」

祠堂法要は、当山の御歴代住職の年忌法要、檀家の先祖供養を行います。

その年、祠堂金(永代供養料)を納めてくださった檀家の方には特別に呼び出し焼香があります。北陸教区の御寺院十五名も参列し、盛大に行われます。





5月

「降誕会」(花まつり)

花まつりは、お釈迦さまのご生誕(4月8日)をお祝いする法要です。当山ではひと月遅れの5月8日に行われます。綺麗な花で飾った花御堂に誕生仏をおまつりし、甘茶をそそいでお祝いします。近隣の子供たちも訪れます。





7月

「鬼子母神講」

鬼子母神さまとは、・・・

鬼子母神の元の字は、サンスクリット語で訶梨帝母と音写されました。鬼神王般闍迦(パーンチカ)の妻で、子供が一万とも一千とも五百ともいわれています。この訶梨帝母は、王舎城に来て、次から次と子供を捕まえて食べていました。ある時お釈迦さまに、村の人々が訶梨帝母のことを訴えました。お釈迦さまは、たくさんいる訶梨帝母の子供の一人を訶梨帝母の目の届かないところに隠しました。すると訶梨帝母は、気が狂ったようになって子供を捜しましたが、見つかりません。ついに、お釈迦さまを訪ねて、訶梨帝母は子供を捜していただくようにお願いしました。そこで、お釈迦さまは、子供を隠したことの理由と、訶梨帝母への諭しのお説教をしてくださいました。訶梨帝母は、お釈迦さまのお話を聞いて改心し、以後法華経の行者ならびに多くの子供たちをお守りすることを誓われました。

                            本山HPより





当山の鬼子母神講は、女性の参詣者が多く、近年、法要後、写経会や当山の大賀ハスの実を使ったクラフトや、新聞紙で作るエコバック作りなど試みています。





「重忠まつり」

畠山重忠公の命日は6月22日ですが、当山ではひと月遅れの7月22日前後の日曜日に、毎年地域の人が集い、墓前に五色の旗を立て、住職導師のもと、みんなで法華経を読誦し、供養しています。江戸時代から続いている行事ですが、近年は楡原自治会主催の行事となり、小学生代表による「奉納踊り」、村人による「重忠踊り」、また、重忠公の力自慢に合わせ、石投げのイベントも行われています。









8月

「盂蘭盆会施餓鬼 塔婆供養」

施餓鬼会は、餓鬼道に堕ちて苦しむ人々に供物を捧げて供養する法要であります。当山では、檀家の先祖供養、特に新盆(昨年8月から今年7月までに亡くなられた精霊)を供養いたします。新盆の檀家の方には特別に呼び出し焼香があります。

また、経木塔婆(きょうぎとうば)を申し込まれた精霊の特別供養もあり、法要後、境内に設置された水路にて各自、経木塔婆を流し、その後、塔婆は御炊き上げされます。

また、当日は、当山の蔵から宝物をだし虫干し供養されます。寺宝の各種掛け軸や、『三帰明王』も御開帳されます。









「御日待ち踊り」

伝統行事の「御日待おどり」は、かつてお盆の精霊と共に夜明けまで踊り明かしたとの由来があります。楡原自治会主催の行事で、本堂でお参りした後、境内に設けられたやぐらの周辺で「さっさ」「えんやら」「かんよう」を踊ります。模擬店や抽選会などもあり、会場は子供や若者も大勢集い盛り上がります。





9月

「秋季彼岸会」

秋中日に,彼岸法要が行われます。

「春季彼岸会」と同様、行っています。


法要後の高座説教

2015.9.23 ハーモニカ演奏会

2014.9.24 シンセサイザー演奏会

10月

「三十番神祭」

番神堂において祭礼が行われます。

三十番神というのは、お釈迦様が日本国中に祀る三十の神々に姿を変え(本地垂迹)法華経の守護神となり法華経の行者をお守りしております。三十人の神さまは一ヶ月三十日の間、毎日交代に国家と国の人々を守る善神のことであります。小さなお堂の中で法華経を読誦し、三十番神さまに感謝し功徳をいただきます。



11月

「お会式」

お会式とは、旧暦の十月十三日が、高祖日蓮大聖人のご命日に当たり、ご本山をはじめとする門末寺院がその前後の日に営む報恩感謝の法要のことです。

当山ではひと月遅れの11月13日に法要を行います。

当山では、江戸時代から今日まで檀家さんの手により餅柱を作り、大聖人様に報恩謝徳を捧げています。

餅柱は、行事の五日前より心を込めて準備されます。

11月 9日

婦人会の方が餅米約60㎏を丁寧に洗います。



11月10日

婦人会の方により、餅がつかれ、竹竿を半分に割った中に入れ、竿餅約百本が作られ、美しい赤や緑に彩色されます。





11月11日

婦人会により、正確に餅が裁断されます。



11月12日

寺総代、寺世話人により、餅柱が組み立てられます。
わら柱を包み込むように三色の餅が、らせん状に組み立てられ、上には美しいスギの葉をと、大聖人様がお亡くなりになった時に咲いたとされる桜(造花)を飾ります。





11月13日

北陸教区十五名の僧侶と檀信徒により盛大な法要が営まれます。
法要後、餅柱は解体され、檀信徒に赤・緑・白をひと組にして配られます。





12月

「大師講」(天台大師講)

天台大師は、中国のお釈迦さまといわれた偉大な宗教家で、西暦597年11月24日に亡くなられました。

天台大師は十八歳で出家すると、当時有名な高僧、慧思(えし)禅師のもとに入門、一心不乱に修行し、法華経を読んで悟りを開きました。 天台大師は、当時インドから中国へ伝えられた膨大な経典のすべての中で法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができるお経であることを確信しました。

そして天台教学を打ち立てられ法華三大部〈法華玄義(ほっけげんぎ)、法華文句(ほっけもんぐ)、摩訶止観(まかしかん)〉という本にまとめられました。

この三大部は鑑真和尚によって日本に伝えられ、奈良で勉強をしていた伝教大師最澄の目にとまるところとなりました。感激した伝教大師最澄は、その本を写して比叡山に持ち帰り一生懸命勉強されました。さらに桓武天皇の許可を得て遣唐使と共に危険を冒して中国に渡り、天台山を尋ねて、研鑽を深め帰国後、比叡山に天台宗延暦寺を開かれました。

日蓮大聖人は、伝教大師最澄が開かれた比叡山で学ばれ、一切経の中で法華経が一番尊く、すべての人々を救うことができるお経であることを確信しました。このように私たち法華宗徒は、法華経を伝えてくださった天台大師と伝教大師を尊崇しております。

当山では、天台大師のご命日とされるひと月遅れの12月24日に天台大師のお姿を描いた掛け軸を掛け法要を行います。





「除夜の鐘」

大晦日の夜、百八回鐘を撞いて私たちの煩悩の熱をさまし、新しい年の招福を願います。


このように、社会が大きく変化する中にあっても、各行事は、時代を超えて引き継がれ、今日に至っております。近年、お日待ち行事などが県の「とやまの年中行事百選」に選ばれ、北日本新聞社や富山新聞社の取材もあり、地元紙に紹介されるようになりました。