畠山重忠公の伝説

 畠山重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、源頼朝の重臣でした。歴史の教科書では、頼朝の死後、北条義時、時房らの謀略により、二俣川で北条の大軍に襲われ、重忠以下134名が討死したとされています。

 しかしながら、伝承によると重忠公の子、六郎が難を逃れ、父の菩提をともらうために楡原の地に真言宗法雲寺を建立したと云われています。

 その後、法雲寺祐光師と上行寺日成師との間に教義論争が行われ、法雲寺は法華宗上行寺に改宗改名されました。

 楡原地区の集落を見下ろす小高い丘の上に、重忠の子、六郎が建てたと伝えられる畠山重忠の五輪塔が残っています。


六郎が建てたと伝えられる五輪塔

 畠山重忠の命日は6月22日ですが、当山ではひと月遅れの7月22日前後の日曜日に、毎年「重忠公まつり」として地域の人々が墓所に集まり、重忠公の遺徳を偲びつつ、当山住職が読経し供養しています。江戸時代から続いている供養祭ですが、近年は楡原自治会主催の行事となり、小学生代表による「奉納踊り」、村人による「重忠踊り」、また、重忠公の力自慢に合わせ、「石投げ大会」のイベントも行われ地域活性の一翼を担っています。


小学生代表による奉納踊り

檀家の皆さんによる重忠踊り

 また、重忠公の位牌は当山に安置されており、重忠公が神通川でとらえた犀(サイ)の角で彫ったと伝えられている「三帰明王(さんきみょうおう)」や、「鐙(あぶみ)」なども寺の宝物として大切にされています。

 これらは、毎年8月末に行われる「盂蘭盆会施餓鬼塔婆供養」の折、公開されています。


三帰明王(さんきみょうおう)

重忠公の鐙(あぶみ)