楡原法華の堅法華(にれはら ぼつけ の かたぼつけ)
永禄12年(1569)に、能登守護職畠山義則が、楡原城に於いて、6世日遜師に帰依し大檀那となったことにより、その後、楡原・岩稲・割山の三集落全戸が上行寺の檀家として法華信仰で固まり、以降、他宗他派を容易に入れない独特の風習を守り伝えてきました。
この楡原を中心とする法華宗徒は「楡原法華(にれはらぼつけ)」あるいは「楡原法華の堅法華(かたぼつけ)」とよばれてきました。
こうした篤い信仰心を最も端的に象徴するものが、かつて楡原で行われたていた「数珠切り」です。楡原法華の家では、他宗の家からお嫁さんが来る時、法華宗への改宗を条件としていました。これは当時、個人の信仰より家の宗旨を優先していたためですが、お嫁さんの改宗が社会的に承認されるためには、いわゆる「数珠切り」という儀式を経る必要がありました。嫁入り後はじめてむかえる4月の祠堂法要の際、お姑さんとお嫁さんが、上行寺に参詣し、高島田姿で嫁入り前の宗旨の数珠を村人の前で切ったのです。数珠切りの儀式は、戦前までの話であり、戦後は行われなくなっています。
楡原には、男性にも独特の風習があります。それは「四十二の厄払い」です。男の厄払いの風習は全国各地にありますが、楡原ではとても盛大に行っていました。厄年になると、餅をつき酒とともに神仏に供え無病息災を祈ります。その餅を親戚や近所へ配り、皆に厄払いをしてもらうのですが、なかには村中に配る者もいたそうです。そうして、節分が過ぎた頃に「四十二の厄払い」として自宅に上行寺の住職を招き祈祷を行うのですが、その後の祝宴がたいそう盛大なもので、当時は結婚披露宴よりも豪華な料理と酒がふんだんに用意され、親戚や近隣の人々が夜を明かすまで宴をしたそうです。現在では「四十二の厄払い」はかなり簡素化されています。
このような『楡原法華の堅法華』の風習は、戦後、時代の流れと共に少しずつ変わって来てはいるものの、法華信仰の篤さは根強く、現在も、独特の風習に習い、各行事を遂行しています。