沿革


現在の山門(明治元年完成)

現在の本堂

 不怠山 上行寺は、応永16(1409)年に、法華院日来聖人により旧新川郡(現・富山市)芦生(あしゅう)の地に建立されました。

 1532年(天文元年)、上行寺4世日成師と当時楡原にあった法雲寺祐光師との間に教義論争が行われ、5世日属師代に、法雲寺を法華宗上行寺と改宗改名し楡原に移りました。

 芦生の寺院は法雲院と改め、上行寺の塔頭となり、昭和24年(1949)まで存続しました。ちなみに、真言宗法雲寺は、源頼朝の重臣畠山重忠公(元久2年歿・1205)の菩提所であったため、その供養を上行寺が引き継ぎ、毎年その墓前にて法要を行っています。

 永禄12年(1569)能登守護職畠山義則が、楡原城に於いて、6世日遜師に帰依し大檀那となり、その後、楡原・岩稲・割山の三集落全戸が上行寺の檀家として法華信仰で固まり、他宗他派を容易に入れない独特の風習を守り伝えてきのです。この楡原を中心とする法華宗徒は「楡原法華(にれはらぼつけ)」あるいは「楡原法華の堅法華(かたぼつけ)」とよばれてきました。なお、塔頭5ヶ坊(福要・円応・常蓮・本泉・立善)を建立したものの、明治末期までに廃寺となっています。


移転前の上行寺旧参道

 江戸時代に入り飛騨街道沿いということで、集落も大きくなり、近隣の大火の類焼を恐れ、村の中央から現在地へ、15年の歳月をかけて山腹を切り開き移転を行いました。これは、当山の沿革史上特筆すべき大偉業であり、これにより25世日禮師を中興転地と称しています。現在の山門は、この時代、明治元年(1868)に完成したものです。

 転地わずか3年後の明治3年(1870)富山藩による一宗一寺の合寺令が発せられました。

 紆余曲折の末、合寺令は廃されましたが、寺院の復興は容易ではなく、各宗連携して復興の運動が行われました。当山の場合、願出により明治11年(1878)に寺号復帰の許可が下りました。

 その後、歴代により、寺観整備を重ね、32世日見師により梵鐘造立・庫裡新築、34世日瑞師により、本堂屋根銅板葺き替え、35世日悠師により本堂渡り廊下・書院・位牌堂開堂、番神堂修復・墓地増設。平成20年(2008)36世日晟の代に、開創600年記念事業として庫裡建て替え・本堂須彌壇等の修復・境内地・墓地整備をし、さらに、芦生法雲院跡に上行寺縁起を記した記念碑を建立し現在に至ります。


上行寺縁起を記した記念碑